愛とは何か… 『ザ・フェミニズム』その2

昨日に引き続き『ザ・フェミニズム』から。
私はこの本をずいぶん前に読んでいたのですが、今回読み直してみて、その時分小倉千加子のすばらしさなんてなーーーんにも分かっていなかったのだな、って実感しました。いまの私の問題意識にかなりフィットしているのです。

昨日の引用に顕著なように、上野と小倉は、フェミニズムへの取り組む動機が対照的なのです。上野の発言を読んでいると、自身が「自分は私怨でフェミニズムをやっている」と常々いっているように、家父長制や、その規範を深く内面化(!)している自分の苦しみや恨みがはしばしに感じられるのですが、対して小倉は、はじめからその規範自体を共有していないということ、そして、その規範を共有していないであろう女性たちのために、フェミニズムを進化させていくのだ、と言ってのけます。

小倉の取り組み方の方に共感したのは、実は私自身、あまり通常の女性性を内面化していないタイプだからです。結婚や出産に対するあこがれはないし、男性に「よしよし」(上野先生のいい方)してもらいたいとも思わないタイプだからです。

最近、「男性に選ばれる」という形ではない、「結婚・出産」という形に限定されない、女性性はあり得ないのか?所詮、「女性」は「男性ではないもの」として定義されるほかないのか?という疑問に逢着し、悩んでいたわけですが、その悩みを吹き飛ばしてくれるような数々の小倉の発言にうなったのでした。

そう、この女性性のことを考えていると、男性ー女性のヘテロ性愛体制はさることながら、最終的には個人と個人のつながり方、他者と自分のと関係の持ち方を考えざるを得ないのです。それは要するに「愛とは何か」という問題です。

この「愛とは何か」という問題を本書の最終部でジェンダーの未来を考えつつ小倉さんが語ってくれています。

小倉 ジェンダー化されて、この社会で育っている以上、ジェンダーレスとかノンセクシュアルになった社会は想像できません。最初から拘束されているから。人間が自分の感情の潜在的可能性を開く時、最初に変わるのは他者との関係です。「制度化されたいかなる関係にも似ない、密度の濃い関係を数々もたらすことは可能だ」とフーコーは言ってます。(中略)
 問題なのは誰と誰が制度の外でセックスをしているかではない。誰と誰が愛しあっているかなんです。目に見えないところで人々が互いに愛しあうことは、権力の最も恐れるところです。
 じゃあ、愛とは何かと聞かれたら、フーコーは「相手を喜ばせることができる一切の事柄の総計」と定義しています。みごとな定義やと思います。私がフェミニストであり続けることに理由があるとしたら、それやとしか言えない。私は人を、周りの人たちを喜ばせ続けたい。なんでか言うたら、世界が色彩にあふれて見えるから。愛が飛び交う濃密な関係をあっちこっちでみんなが実践すればいいと思う。もう、それは始まっているような気がするんよ。うん。現実に存在してますよ、あっちこっちで。ムンムンするぐらい。
上野 ほんとうにそうですね。エロスとはほんらい、生を肯定する力のことですから。