橋本治にはまってます。

井口時男の続きを書きたいと思いつつ、横道読書がやめられません。
今さらながら、橋本治にはまってます。

この人、おもしろすぎ。

何の気もなしに、内田樹との対談本を読んだのですが、この本は対談というよりは、内田樹橋本治の面白さを引き出し、まとめ、紹介するというかんじになってます。

今まで、このどうも立ち位置がよくわからない橋本治という人の本は読まず嫌いで敬遠してたのですけど、この人、一般的に分かりやすい筋を通さないということで、一本筋が通ってるおっさんですね。

いくつか、ランダムに面白いと思ったところを抜き書き(『橋本治という行き方』より)

 方言と標準語の還流は、地方自治と国政との関係にも重なるものであろうし、自分の必要だけでOKとする「雑」なる知識と、「これを知らねば恥」とする「教養」との関係でもあるだろう。
 教養を捨てることは、自分の現在だけを成り立たせる興味本位の「雑」だけでよしとして、人としての思考のフォーマットを捨てることになる。そして、「雑」を吸収しえない教養だけでよしとしてしまったら、そこでは個なる人間の「生きることに関する実感」が捨てられてしまう。方言と標準語がそうであるのと同じように、「雑」と教養もまた、互いに還流してぐるぐる回るものだと思う。そのような形で、決して教養は古くないし、不要でもないと思う。教養というシステムを回復させない限り、情報という、中途半端な知識に振り回される人間達は、孤立したままで終わるだろう――そういう逆転現象はすでに怒ってしまっているのだと思う。p、95

 映画『マトリックス』のすごいところは、「二十世紀の人間は欲望で生きているんじゃない。外から欲望を刺激されて、大量消費を必須としてしまった産業社会を成り立たせるように生きている――生きさせられている」ということを見事に比喩化してしまったところだが、「こんなことやっちゃったら、もう他の映画は観れないじゃないか」と、その一九九九年に思った。p、156

 だから私は、「読書の楽しみ」などと言われると、引いてしまう。私にとって「本を読む」は、「自分の知らない世界観につきあう」で、「それを学ぶ」だから、とんでもなくしんどい。「学ぶしかないか」とあきらめて、それが可能になるような態勢作りをするのに、とんでもない時間がかかる。「楽しみ」などというものがあるのだったら、その苦労を覚悟した先のことだ。
  (中略)
 本を読むことがもっぱらに「楽しみ」である人達は、読むことが苦にならないものばかりをもっぱらに読む。そして、「本を読むことは勉強だ」と思う人の多くは、「本を読んで勉強していた過去」ばかりを念頭に置く。「私は過去において本を読んで、もう出来上がっているので、今さら本を読まない」という大人は、いくらでもいる。「学んで意味あること」と位置付けないと、本なんか読んでも、なんの意味もない。「本なんか読まなくても大丈夫」と思う人達は、自分の中の「出来上がってしまった世界観」だけで、なんとかやっていける人達なのだ。そして、現代ではそこから問題が生まれる。なにしろ、イラク戦争は、「異質な世界観のぶつかり合い」でしかないからだ。
 私は現在の問題の多くが、「異質な他人に対する想像力の欠如」を原因にしているとしか思えない。そういう意味で、「他人というテクストを読む」が出来にくくなっているのだが、それはつまり、「本をちゃんと読めない」と同じなのだ。だからこそ、「本は要る」のだ。p,205

 私にとって、「本を読む」というのは、とっても苦労がいることで、ここ何年間で読んだのは、『日本書紀』と『続日本紀』と『保元物語』と『平治物語』だけだ。p、206

「考えてもいいんだ」という事実は、思考の自由を生む。と同時に、「答えられなくてもいいんだ」という事実は、確定された現実の外側へ出なければならないという強迫観念を生まない――だから、穏健になる。p、221