井口時男「いわれなき註解となって/きみは/そこへ佇つな」(「日本文学」vol.56 2007・8)

自分が国語の教師として教壇にたつようになってさまざまなことを思い、考えるたびに、この論文を読み返す。教育のために「国語教育」をする者としてではなく、一文学研究者、一度深く文学とは何か、作品を読むとはどういうことか、を考えたものが国語を教育をする時に、何を思いとどめればよいのか。


筆者は神奈川県で国語の高校教師をした後、『物語論破局論』をもって文芸批評家としてデビューする。処女評論であるこの本の扉の冒頭に、石原吉郎の詩「月が沈む」の末尾の三行が掲げられている。

いわれなき註解となって
きみは
そこへ佇つな

これは「文芸批評家を名乗ることになった私の自戒」であるとともに、筆者の教員時代の自戒でもあったとする。

テキスト(教科書)に註解しつつ生徒とテキストとの間に介在することは教員の仕事だが、実にしばしば、その仕事が生徒とテキストとの出会いを邪魔していることがある。しかもほかならぬ自分の授業がそれをしているのではないか。そういう反省はどんな教員の胸にもあるだろう。私もまた、そのような思いとともにこの三行を噛みしめたことが何度もあった。

筆者と同じように、私が教壇にたつようになって何度もためらい、躓くのは「はたして自分が説明する解釈を、生徒に、正しい、と教えていいのか?」という問いの前に、である。教科書に採用されるようなレベルの作品であるならば、その作品の豊かさは疑うべくもない。しかし、授業では「正しい」たった一つの読みというものを提示し、説明せねばならない。
もちろん、私は口頭でさまざまな読みの可能性を提示しつつ、生徒にも問いかけ、彼らの柔軟な発想を引き出すようにしている。しかしそれにも限度がある。私はいつも、その不安定なはざまで揺れながら、黒板に「ただ一つの解」を板書することになる。

こうした私の不安、戸惑いに、井口はこのように答える。

正しい読み方というものが唯一性を意味するなら、文学作品に正しい読み方など、厳密には、ない。しかも「正しさ」はしばしば読者を抑圧する。試験や成績評価に結びつく教室ではなおさらのことだ。大事なのは、正しい読み方ではなく、作品の魅力を引き出す読み方、つまり、創造的な読み方ではないか。
(中略)
私がいうのは、読むという行為の魅力と可能性を提示するような読み方のことだ。生徒が自力で到達できなかった高みにまで、あるいは深みにまで、あるいは広がりまで、生徒の認識と感覚を連れ出す読み方、そのことによって生徒に新鮮な驚きと興奮をもたらす読み方、それが私のいう創造的な読み方である。そのような読み方を提示できれば、授業はそれだけで成功のはずだ。文学教育の目的は、結局は生徒自身が、もっと自分で読もう、もっと読み方を深めよう、と意欲することのはずだから。

「だから、教室で教員が提示する読み方は、一種の実例としての模範演技みたいなもの」、コンスタティブであるよりも、パフォーマティブである。としつつ、この後論は「読むこと」に対する興味深い議論へと接続されていく。

(書きかけ)